「国家に心を奪われないために」

公開講演会(2005年1月23日・本願寺備後会館)

 東京大学教授 高橋哲哉さん

浮上してきた教科書問題

 皆さん、こんにちは。高橋哲哉でございます。皆さん、肩の力を抜いて聴いていただければと
思います。
 私、実は昨年の11月2日でしたか、福山でやはり「教育基本法」をテーマに講演をさせていた
だいた事があります。あの時は教育関係者の皆さんが主催をされたという事で、教育基本法と
教育現場との関係の問題ですね、こういった事を中心にお話したんですけれども、今日はお寺
さんですので、教育基本法と宗教の浅からぬ関係について出来るだけ焦点を当ててお話しよう
というふうに思って参りました。
 今年私の仕事始めが1月6日で福岡でした。やはり宗教関係でこちらは日本キリスト教団の
九州教区でのお話。やはり教育基本法のテーマだったんですけれども、福岡で始まりまして今
日が福山で、来週の土曜日が福島、日曜日が福井という事でですね、何故か「福」の付く所で
の講演が非常に多くなっておりまして、「今年は良い年になるのかな」というふうに思っていま
す。
 しかし、先ほどちょっとご紹介いただいたように年が明けて直ぐにNHK番組改ざん問題と言
うのが急速に政治問題化してきまして、今てんやわんやの状況にあります。
 2001年にあれだけ大きな問題になりました、いわゆる教科書問題。新しい歴史教科書をつ
くる会が扶桑社から出した歴史教科書、および公民教科書、これが検定を通過して採択される
かどうか、という事で国内のみならず、韓国や中国との関係でも大きな問題になりました。
 あの問題が今年もう一度やってくる。中学校の教科書採択の年なんです。その年が明けたと
いう事。そして今日のテーマである教育基本法の「改正」法案がひょっとしたら今度の国会に上
程されるかも知れないという事。更には自民党などは結党50年という事で、憲法「改正」案とい
うものを発表するという事を言っております。こういった戦後60年になる、この日本の国と社会
の基本的な価値観に係わる最も重要な問題が、めじろ押しに出てくる。そういう年だろうという
ふうに思っていまして、出来るだけ「福」という結果になってもらいたいんですけれども、それが
どうなるか、私たちの行動次第ではないかというふうに思っております。
 私、実は今埼玉県民でありまして、さいたま市在住で東京に勤務しております。昨年の12月
に、その地元の埼玉で大問題が起こりました。それは上田清司知事、この人は元民主党の衆
議院議員だった人ですけれども、この上田知事が教育委員の交代にあたって、「高橋史朗とい
う人を新しい教育委員にしたい」という意向を12月の初めに表明した訳です。
 高橋史朗という人は実は「つくる会」、先ほど言いました「新しい歴史教科書をつくる会」の中
心メンバーで、副会長としてずっと活動をしてきた人です。この人が今お話しましたように教科
書採択の年に教育委員になるという事は、様々な法令に違反する疑いがあるのみならず、や
はり思想そのものが教育委員に相応しくない、といったような論点が出まして、反対運動が起
きたんですけれども、12月21日の県議会で自民党の賛成で決定してしまったんです。
 「教育委員に高橋氏」と言うのが一面トップで出まして、私の友人なんか「いよいよお前も教
育委員か」というふうに誤解した人がいたかいなかったか分からないんですけれども、何かこ
の間「埼玉の高橋問題」というふうになってましてね、埼玉に住んでいる高橋としては居心地の
悪いような感じが続いています。
 この高橋史朗氏という人は、「つくる会」のメンバーですから「歴史教科書にいわゆる日本軍
慰安婦の問題を書くのはけしからん。削除すべきだ」という主張から始まりまして、「自分たち
の主張を載せた教科書を自分たち自身で作ってしまえ」という事で、扶桑社から教科書を出し
たわけです。同時に彼の一番のフィールドは道徳教育で、とりわけ性教育に関心が強いんで
す。
 この問題が起きて12月12日に埼玉でも教育基本法改悪に反対する集会が600人ぐらい集
めて行われました。これはそれまで対立していて同席する事がなかった複数の教職員組合の
人なんかが同席するという画期的な集会でした。そこでこの問題が起こったものですから、こ
の高橋史朗氏がどんな活動してきたのか、という事で彼が出演しているビデオを上演したんで
すね。このビデオは「性教育過激派のねらい」というビデオです。それで私も初めて見てびっくり
したんですけれども、最初の部分にこういうナレーションが入るんですね。「社会主義国は崩壊
したが、共産主義は今『性教育』という名の妖怪に形を変えて子どもたちと家庭に入り込んで
来ようとしている」。非常に不気味なビデオなんですけれども、高橋氏がその中で現在日本で
進められている性教育と言うのは、いかに過激なものであって人々の常識に逆らうものである
か、「性交教育」「性器教育」「煩悩教育」だというふうに決め付けて攻撃をしている。そしてまた
最後が衝撃的な終わり方をするビデオなんです。
 当時、日本で広く使われていた性教育の中学校用と高校用の副読本が画面に現れまして、
なんとそれに火が付けられ、燃やされるシーンで終わるんですよね。つまり焚書ですね。かつ
てナチスドイツが「ユダヤ人の書物が有害である」と言って鎧の広場にそれを集めて燃やしまし
た。それと全く同じ感性でこの性教育を攻撃している、そういうビデオだった訳なんです。このビ
デオは高橋氏自身が表明しているところでは、勝共連合系の団体から依頼されて出演したと
いう事で、実は彼はいわゆる統一教会系のグループと連動しながら、ずっと現在の性教育を
過激だとして攻撃してきた、そういう人物だったんですね。
 そのビデオの中で燃やされている性教育の副読本の中学校用のほうをここに持って来てま
す。東京書籍のもので、中を見ますと、子どもたちが成長していく過程で、「性」というものを自
分の中にどういうふうに統合していくかという事を中心にして書かれています。
 一番最後の所には参考資料として「子どもの権利条約」、それから「女性差別撤廃条約」、そ
して「世界人権宣言」というものが載っております。至って真っ当な性教育の副読本だと私など
には見えるんですが、これが過激派になってしまう。共産主義者の陰謀だという事になってしま
うんですよね。
 そういう性教育バッシングを進めると同時に、彼はいわゆるジェンダーフリー教育というもの
に対しても攻撃をしてきました。ジェンダーフリーと言うのは、「女性差別撤廃条約」というもの
を日本がようやく批准し、行政サイドでも「男女共同参画基本法」というものを制定して、敗戦後
の日本国憲法の制定でようやく男女平等が日本に導入された訳ですけれども、にも拘らず実
質的に様々な社会の場面で存在していた女性差別というものを行政サイドも含めて無くしてい
こうという、そういう試みがこの間あった訳です。それに対して非常に反論的な形でバッシング
をする。ジェンダーフリーと言うのは、伝統的・固定的な性別役割分業、男らしさ、女らしさとい
う伝統的なものを押し付けることへの批判から出てきた考え方で、21世紀においては、当然社
会的な前提にならなければならないと、私などは思っています。これを攻撃し、そして教育現場
では東京都の都教委がですね、これも昨年の暮れに決めましたように「男女混合名簿などもも
はややってはならん」というような動きを進めてきた中心人物、これが高橋史朗氏だった訳な
んですね。

「民間教育臨調」が出した6項目の要望書

 こういう人がちょうど教科書採択の年に教育委員になってしまったという事で、いま埼玉の市
民運動は大変な状況なんですけれども、この高橋史朗氏の問題から入って、少し現在の教育
現場に導入されてきている様々な施策の問題点、そしてそれが教育基本法「改正」にどのよう
につながっているのかについて見ていきたいと思います。
 この高橋史朗氏が事務局長を務めていた「新しい教育基本法を求める会」というのがあった
のですが、この会が2000年の9月18日に当時の「神の国」発言の森首相に対して「教育基本
法「改正」する際にこの6つの要求を盛り込んでほしい」として要望書を提出しました。資料を見
ていただきますと事務局長に「高橋史朗」と書いてあります。そしてこの役員の顔ぶれを見ます
と、ほぼ半分ぐらいは「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバー。当時の会長である西尾幹二
氏の名前も見えています。
 実はこれは「つくる会」の別働隊とも言えるもので、「つくる会」としては自分たちの国家主義
的な教科書を大量に採択させるためには、教育基本法の中に国家主義的な要素を盛り込ん
でしまえば良いと、そういう戦略を立てて教基本法「改正」にもずっと力を入れてきています。こ
の「新しい教育基本法を求める会」、実はこの後、この会はより大きくなって発展的に解消しま
した。現在は「日本の教育改革有識者懇談会」という名前の会になっています。「民間教育臨
調」というふうに自称して活動しているんです。この会でも高橋史朗氏は運営委員長という形
で、やはり中心的に活動しています。そういう形で高橋史朗氏はいまや至る所にその名前が出
てきているんですが「民間教育臨調」の人たちの活動方針の第一にあげているのは教育基本
法の「改正」です。彼らが何を目指して教育基本法を「改正」しようとしているのか。
 これは決して与党と政府で作られていると思われる教育基本法「改正」法案と無関係ではあ
りません。と言うのは、要望書の項目の多くが既にこの間の教育改革の中で学校現場に入っ
てきているからです。そしてまた今の教育基本法「改正」の流れの中で、新しい教育基本法に
盛り込まれようとしている。まさに彼らの要求が少しずつ実現していく形で、いわゆる教育改
革、そして教育基本法の「改正」というものが今進められていると言わざるを得ないんですね。
 先ず第一番目の項目は「伝統の尊重と愛国心の育成」という事ですね。まあ教育基本法「改
正」論者たちが真っ先に挙げるのは必ずこの「愛国心」、そして「伝統文化」、ないし「伝統の尊
重」という事なので、その通りにここでも出てきていると言って良いと思います。
 読んでみますと「古来、私たちの祖先は、皇室と国民統合の中心とする安定した社会基盤の
上に、伝統尊重を縦軸とし、多様性包容を横軸とする独特の文化を開花させてきました。教育
の第一歩は、先ずそうした先人の遺産を学ぶところから発しなければなりません」とあり、日本
の伝統の中心には皇室があるという事を言っており、「その先人の遺産を学ぶためには国語と
歴史が重要である。しかしその役割をこの2つの科目は果たしていない…」とあります。
 特に「歴史」については「歴史の教科書は、その多くが偏った歴史観の持ち主によって書か
れているため、日本の国柄や国民性についての正しい認識を与えないばかりか、それを貶
め、祖先を軽蔑するような記述に少なからぬ紙面が割かれています」とあり、いわゆる「つくる
会」の自虐史観に対する批判というものがここで述べられている訳です。
 いま「日本の国柄」という言葉が出てきましたが、是非この言葉に注目しておいていただきた
いと思います。「ぜひ新しい教科書の中に『伝統の尊重と愛国心の育成』を明記する事により
………」、という事で当然ながら先ずこの事が言われる訳ですね。
 この「伝統の尊重と愛国心の育成」と言うのは、既に学習指導要領に入っておりますし、その
事はここにも書いてありますが、そういう事と連動して、いわゆる『心のノート』、これも後で触れ
ますけれども、道徳の副教材として小・中学校に文部科学省が発行した『心のノート』というも
のが導入されていますが、その中で「伝統の尊重」や「愛国心の育成」に当たる記述が見られ
るようになりました。
 あるいは小学校6年生の社会科の通知表の中に子どもたちの愛国心、国を愛する心情と日
本人としての自覚を持とうとしているかどうかを3段階評価する事が全国の各地で始まってい
ます。あるいはご承知のように全国で日の丸・君が代の強制が進められている。この問題、広
島もですね、国旗・国歌法の制定の時には、そのきっかけになった訳ですし、九州は北九州で
行われている「ココロ裁判」であるとか、東京が最初だった訳じゃないですけれども、いま東京
で一番異常な形でそれが行われています。こういったものもいわゆる愛国心教育として、現場
に入ってきており、それを教育基本法の中に明確に書き込む事によって全て正当化して、更に
徹底していこうという流れになっています。
 2番目には「家庭教育の重視」と書いてあります。「家庭教育の重視」と言われれば、これは
それ自体「悪い事だ」と言う人はたぶんいないと思うんですよね。人の子の親になり、そして子
どもを育てた経験のある人は「家庭教育が大事だ」と言われた時に、「そんな事はない」と言う
人はあまりいないんじゃないかと思います。
 私も2人の娘がいますが、「家庭教育をちゃんとやったか」と言われると忸怩たる思いがあり
ます。「家庭教育を重視しなければならない」、それ自体は取り立てて批判されるべき事ではな
いと見えるかも知れません。しかし、実は彼らの言っている「家庭教育」と言うのは、先ほどの
高橋史朗氏のような考え方に対応するような家庭教育でありまして、「私たち日本人は、家に
対して格別の思いを抱いておりますが、それは遠い祖先から子々孫々へ伝わる生命の連続性
と、家庭間の絆を実感する生命の連帯性の意識と深く関わっているからです」と、こういうふう
に書いてある訳です。
 「家庭」とか「家族」という言葉に加えて実は「家」という言葉がここで明確に出されてきてい
て、伝統的な性別役割分業のみならず、いわゆる家父長制的な「家」というものが彼らにとって
モデルになっている。もっと言えば「遠い祖先から子々孫々に伝わる生命の連続性」というよう
な言い方を見ますと、「皇室」というあの「家」が彼らにとってモデルになっているんじゃないかと
いうふうに思わざるを得ません。

教育基本法と憲法の密接な関係

 そして3番目。これが今日少し立ち入って考えてみたい所になるんですけれども、「宗教的情
操の涵養と道徳教育の強化」というものが出てきています。「宗教的情操の涵養」って何だろ
う。「道徳教育の強化」と言うのは『心のノート』の導入などで、そういう動きがあるという事なん
ですが、「宗教的情操の涵養」とは何かと言うのは、事情を知らない人は直ぐには分からない
だろうと思いますね。
 「太古から私たちの祖先は、森羅万象に宿る人智を超えた『大いなるもの』に対し畏敬の念
を抱き、その加護によって生かされていることに感謝の祈りを捧げてきました」と書いてありま
す。「人智を超えた『大いなるもの』に対する畏敬の念、感謝の念」と言うのが、この「宗教的情
操の涵養」と言う時に彼らが先ず口にする事なんですね。
 「畏敬の念」や「感謝の祈り」が戦後、個人主義が強まって見失われてしまったために今のモ
ラルの崩壊が起こっているんだというふうに言った上で、「『道徳』の授業は、多くの学校で事実
上放棄されたままになっていますが、『宗教的情操』の教育を取り入れることによって新たな息
吹を取り戻すことができるでしょう。個人の生命をも超えた、大切なものがあるという意識のも
とに祖先が守り伝えてきた様々な徳目が教えられる学級運営を期待します」。こういうふうに言
われている訳ですね。ここの所にちょっと注目して話を発展させて見たいのですが、とりあえず
6項目全部を見てからにいたしましょう。
 4番目には「国家と地域社会の奉仕」という事で、これはもう奉仕活動の義務化という、何だ
かよく分からない形でこれも現場に既に入ってきています。
 5番目は「文明の危機に対処するための国際協力」という事で、これも尤もらしい事を言って
おりますが、実態は国際貢献としての自衛隊のイラク派兵とかですね、こういったものにつなが
っていくものと言わざるを得ません。
 最後の6番目「教育における行政責任の明確化」。ここは実は教育基本法「改正」問題にお
いては最も重要なポイントの1つです。「教育における行政責任の明確化」という事で、彼が何
を言っているかと言いますと、「国や都道府県が持つ教育行政に関する機能を上からの『不当
な支配』とみなし、学校単位の自治を至高の地位におこうとする考え方」。こういった考え方は
GHQ、連合軍総司令部なんですね。占領中に導入したものであって、その結果「下部への行
き過ぎた権限の委譲が、『民主化』の名を借りて進められてきました」と、要するに「国や都道
府県が教育行政として持つ機能を『不当な支配』と言って退けて、現場にその権限を委譲し過
ぎた。それを『民主化』の名のもとに進め過ぎたために、学校現場で混乱が生じてきたんだ」と
して、この国や都道府県が持つ教育行政権力をですね、もう一度見直し、評価し、それを強め
るべきだという提言になっている訳です。
 現行の教育基本法を見ていただきたいのですが、第10条には教育行政について規定してお
りまして、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われ
るべきものである」。これが第1項。第2項で「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を
遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」、こういうふうにな
っている訳です。
 かつて戦前、戦中、旧日本帝国の時代に教育は文部省、すなわち国家によって完全に支配
され、教育勅語を頂点とした形で国家主義の教育が徹底的に国民に注入された。その結果と
してあの侵略戦争や植民地支配を正しいものと考える。そして国が危ういという時には、命を
捨てても天皇と国家に尽くさなければならないと考え、そういう考え方が広められた。その結果
として1945年の敗戦に至った。この事の反省からですね、「教育行政権力は教育に対して不
当な支配を行なってはならない。教育は、そういう教育行政権力の不当な支配に服することな
く国民に対して直接に責任を負って行われるべきものなんだ」と。
 いわゆるお上に責任を取るのではなくて、子どもたち、そして保護者、国民に対して責任を第
一義的には負うんだという事を述べており、教育に対する教育行政の不当な支配の禁止という
ものをここで行なって、「それじゃ教育行政は何もしなくて良いのか」と言うと、そうではなくて、
教育行政では不当な支配をしない、してはいけないという自覚に立って、教育の必要条件の整
備確立をやるんだという事ですね。あくまでも教育行政がやるのは条件整備なんだというふう
に行政の役割を限定した訳ですね。

『心のノート』の導入とともに

 教育基本法はこの前文で憲法の理想の実現のために、日本国憲法の精神に則って定める
というふうに謳われていまして、憲法と密接な関係を持つ法律なんですけれども、特にこの第
10条は、それ自体が憲法的な意味を持っていると言えるんですね。
 どういう事かと言いますと、最もオーソドックスな「憲法」と言うのは西洋の近代に生まれたも
ので、立憲主義という考え方。憲法を立てて国を運営するという考え方。「憲法」と言うのは
constitutionと言いますけれども、立憲主義はConstitutionalismと言うんですね。
 その基本は「民主主義国家においては主権は民にある。ピープルにある」と。日本では「国
民」と言ってますけれども。しかし、その「民」があらゆるパワーの源泉なんだけれども、国を運
営するために国家権力というものを構成する。これが立法・行政・司法の「三権分立」という形
で作られる訳ですね。立法権、行政権、司法権、いずれも国家権力ですけれども、その権力の
源泉は主権者である「民」、「ピープル」の人々のパワーにある訳ですね。
 しかし、いったんそうやって国家権力を構成してしまいますと、権力を付託された人々がその
権力を乱用して何をするか分からない。この権力を構成した時にその権力がやってはならない
事、そして権力がやるべき事、これをあらかじめ決めて権力をコントロールする。これが立憲
主義、つまり憲法で国を運営するという考え方の基本なんですね。ですから「憲法」と言うの
は、民が国家権力者に守らせるものという意味を持っている訳です。
 これは現在の日本国憲法でもはっきりとそう書いてありまして、99条でしたかね、ちょっと今
正確ではありませんが、はっきりと書いてあります。国の最高法規としての憲法。これは天皇、
国務大臣以下、公務員がこれを守らなければならない。公務員が憲法を遵守、擁護義務があ
るという事を、憲法ではっきりと謳っている訳です。
 そういうふうに考えますと、この第10条の所は、教育の場面で教育行政権力がやってはなら
ない事、すなわち「教育に対する不当な支配」、やるべき事、それは「条件整備」とはっきりと定
めている訳ですね。
 教育行政権力に対してやってはならない事と、やるべき事を定めているという意味で、憲法
的な意味を持っている重要な所であるという事が分かると思います。
 教育が国家のもの、国家の国家による国家のための教育じゃなくて、その国を構成する一
人一人の国民、そして子どもたち、学校に通って来る子どもたちのものであるという事の保障
は、まさに教育行政権力、国家を頂点とする教育行政権力によって不当な支配を受けないと、
ここに担保されている訳です。
 ところが、もう一度教育を国家のものにしたい人々にとっては、この第10条がまさに最大の障
害物になっているという事なんですね。

行政権力の肥大化
 
 そこでこの「求める会」は、先の提言を出しているんですけれども、昨年の6月に自民党と公
明党の与党の協議会が出した教育基本法「改正」の中間報告によりますと、第10条は「教育
は、不当な支配に服することなく」と言うのではなく、「教育行政は、不当な支配に服することな
く」というふうに変えられているんですね。つまり全く逆の発想に変えられていて、教育行政を何
者かが不当に支配する可能性があるので、それを禁止するというような条文に変えられている
のです。
 これはとんでもない事でありまして、権力を支配するのは何なのか、という事になってきます
よね。どうやら教職員組合とか、あるいは市民運動とか、そういったものが念頭に置かれてい
るようなんですが、まさにここが「求める会」が望むような形で、国家や都道府県の、つまりお上
の行政権力を肥大化させる方向で変えられようとしているんですね。 その事を先取りしている
のかどうか、最初にご紹介しました埼玉の高橋史朗問題。これが起きた時に先ほどの埼玉新
聞の紙面にもありましたように、市民が反対運動を起こしました。「とんでもない人事だ」という
事で異議申し立てをしたんですけれども、この時に上田知事が何と言ったかと言いますと、「反
対運動は知事の任命権に対する侵害だ」と、こう言ったんですね。「反対運動は知事の任命権
に対する侵害だ」。そんな事を言ったら反対の声をあげる事が出来なくなってしまいますね。
「教育行政は、不当な支配に服することなく」などという文言が教育基本法に入ったら、そういう
国や都道府県の首長の意向というものが、もう全能になってしまう。そういう恐れが出てくると
思います。ですからここは今後とも皆さん是非注目していっていただきたいと思います。
 さて、今日は特に教育基本法と絡んだ宗教の問題に焦点を当ててみたいというふうにお話し
たんですが、「求める会」の要望書の3番目にですね、もう一度戻っていただきたいと思いま
す。「求める会」は、「宗教的情操の涵養と道徳教育の強化」というものを主張していました。そ
れでこの「宗教的情操の涵養」と言うのは、これから見ていきますけれども、実は「求める会」
が新しく出してきた言葉では全くありません。これは実は戦前の「修身」の科目の中で教えられ
ていた事なんですね。旧日本帝国時代の教育の中で、また宗教の中で使われていた言葉なん
です。
 この「宗教的情操の涵養」が出てくる時には、ほぼ決まってそこにありますように、「『大いな
るもの』に対する畏敬の念」とか、それから「自分を生かしてくれているものに対する感謝」、あ
るいは「報恩の念」という事が語られてきた訳です。
 ここが非常に大事だと思いますのは、言うまでもなく「宗教的情操」という訳ですから、これは
仏教、あるいはキリスト教、こういった宗教の信仰内容にも微妙に関わってくる事です。ですか
ら宗教者、戦前の宗教、戦前・戦中の宗教者の人々が「宗教的情操の涵養」という言葉に言わ
ば誘われて、こういった考え方を自分たちの運動の中で取り込んで行って、その事によってこ
の国家に取り込まれてしまったと言うですね、そういう歴史があるんですね。
 
使用せざるを得ない『心のノート』

 先ほどご紹介しました、いわゆる「心のノート」は2002年度の春から全国の小、中学校に文
部科学省発行という形で一律のものが配られました。全国の小、中学生1千万人以上いるん
でしょうね。その子どもたち全員に配られるべきものとして配布された訳なんです。
 小学校では低学年、中学年、高学年、それぞれありまして3冊。中学校版は1年から3年まで
同じ1冊。いずれにしても全国の中学生は文部科学省発行の同じ道徳の副読本を手にすると
いう形になった訳です。
 私は「心のノート」をここで詳しく立ち入って議論するつもりはありませんが、そもそもそういう
形で、全国の小、中学生に届けられた事自体に問題があるという考え方です。内容以前に問
題がある。もし、これが道徳の教科書でありますと、教科書は国定教科書であってはならない
訳ですから、様々な人が様々な教科書会社から執筆をしてですね、それが検定に合格すれ
ば、それぞれの現場に近い所で採択されて使用されるという事で、同じ学年の同じ科目で全国
一律の教科書が使われるという事は先ず考えられない訳です。その事がかつての国定教科書
による教育の誤りに対するブレーキになっているという事なんですけれども、むしろこの『心の
ノート』は教科書ではなく、教科書でそういう事は出来ませんので、副読本という形をとる事によ
って事実上の国定教科書に近い形を実現してしまったという事ですね。教材ですから教科書で
はありませんから、「使用を強制するものではない」と文部科学省は言ってますけれども、しか
し使用状況の調査などが行なわれていますし、現場ではやっぱりこれを使わざるを得ないとい
うプレッシャーが、既成事実化とともに強まってきているという事ですね。
 そもそも使われないものを膨大な予算を投入して急遽これを作って配るという事は、それ自
体税金の使い方としてはおかしな事な訳で、やっぱり使わざるを得ない方向に行く訳ですね。
そうすると、『心のノート』が許されるならば、例えば『愛国心ノート』とか、何でもですね文部科
学省が勝手に作って、それを全国に「副教材です」、「副読本です」というふうにやって配るり、
事実上使用せざるを得ない状況を作っていく事が出来てしまう訳です。これ自体がですね私は
大きな問題だと思って批判してきた訳です。
 しかし、同時に内容にも色々な問題があります。先ほどは「愛国心の育成」という事に絡んだ
記述が既に入っているという事を申し上げました。これは小学校の高学年用、中学校用の『心
のノート』の最後の辺りには、はっきりと「この国を愛し、その発展を願う」というようなメッセージ
が大きな文字で書き込まれている。今日はそこに焦点を当てませんので資料には入っており
ませんが、既にそういうものが入っている。
  他にも幾つも問題点を感じるんですが、ここで焦点を当てたいのは、この4種類の「心のノー
ト」ですね。小学校版が3冊、中学校版が1冊。いずれも4部構成になっているんです。そして
第1部では「自分の心を見つめる」というような事がテーマになっています。第2部では「他人と
の関係」という事がテーマになってきます。第4部ではですね最後に「愛国心」が出てきます。
「集団の中での自分」という事で、学校や地域社会や、あるいは国家、国際社会、というような
事が取り上げられてくる訳ですけれども、第3部を見ていきますと、この「畏敬の念」、「宗教的
情操」という言葉こそ出てきませんが、明らかにこの「畏敬の念」というものを子どもたちに注入
しようとする記述になっている訳なんです。
 「大いなるもの」、「自然」、「大自然」、「生命」とか、いう形で一見当たり障りがないと言うか、
むしろエコロジーなんかを考えると、今こそこういうのが必要だと思ってしまいかねない。そうい
う形になっていますけれども、所々で明らかにこの「求める会」の人々が、この第3要望としてで
すね、森首相に要望していた事に対応する記述が見て取られる訳です。
 資料を見ていただきたい。「人間の力を超えたものを畏れ敬う気持ちが湧いてくる」と書いて
あります。「畏れ敬う」、まさに「畏敬の念」ですよね。私なんかは「畏敬の念」と言うと、アルベル
ト・シュバイツア博士の「生命の畏敬」と言うのを習った記憶にあるんですけれどもね、一見そっ
くりなんですね。「生命、大自然への畏敬の念」という事です。
 その下の所には「生命を考える」という事で、「有限性」と「連続性」と書いてあります。「一人
一人の生命には、いつか終わりがあるけれども、生命はずっとつながっている連続性の中に
あるもので、私の生命は私のものでもあるが、しかし私を超えている。私だけのものではない」
というふうに言われている訳ですね。
 「この生命は私のもの。だれのものでもない。かけがえのない私のもの。でも、どこからやっ
てきたのだろう。そう、これは私が受け継いだもの。ずっとずっと遠い遠いむかしから受け継が
れ受け継がれて、私が受け取ったもの。この生命は私のものだけれど、私だけのものではな
い」。こういう言い方です。
 要望書に戻っていただきますと、「畏敬の念」、「畏れ敬う気持ち」と言うのが入っていたの
は、いま確認していただきましたが、2番目の「家庭教育の重視」の所で、先ほど読みました部
分、もう一度見てください。「私たち日本人は、家に対して格別の思いを抱いておりますが、そ
れは遠い祖先から子々孫々へ伝わる生命の連続性と、家庭間の絆を実感する生命の連帯性
の意識と深く関わっているからです」という事で、この「遠い祖先から子々孫々へ伝わる生命の
連続性」という所はですね、全く同じ形で『心のノート』に入ってきているという事が分かると思う
んです。
 次には「道徳教育で学校を再生しよう。道徳教育への勇気を」というふうに題されてますけれ
ども、当時、文部省の初等局の中等教育局の教科調査官であった押谷由夫という大学の教員
をしている人の文章なんですが、『心のノート』は、「発行文部科学省」としか、「心のノート」自体
には出てないんですけれども、誰が作ったか分かっています。河現在も文化庁長官をしている
河合隼雄氏がキャップとなって、そのもとで何人かの学者や教員の人たちが作っている訳で
す。その中の中心人物の1人がこの押谷由夫という人だった訳です。この押谷由夫氏は『心の
ノート』がいかに重要であるかを様々な所で書いており、『心のノート』を通してどういう道徳教
育をしたいのかについても語っている訳ですね。
 資料を見ていただきますと、ここに「生命の自覚」と書いてあって、「与えられた生命」と「自分
しか生きられない生命」、「有限な生命」、「受け継がれる生命」、いう対比がありまして、まさに
先ほどの「心のノート」の「有限性」と「連続性」という記述に対応しているんですね。そしてそれ
らが一番下の所で「感謝の心(報恩→大志)」という所で取りまとめられているという事ですね。
彼がそこの記述に大きな力を発揮したという事はこれ間違いないだろうと思うんです。
 ここで財団法人全日本仏教会の資料をご覧にいれます。これは2001年に、「全日本仏教会
仏教徒会議」と言うのが行われたという資料なんですが、注目すべき事にこの文部科学省教
科調査官の押谷由夫氏が第2分科会「教育」という所で、「自己の生命を見つめ、感謝する心
と大志をはぐくむ子どもを育てよう」というテーマで講演をしていると。押谷由夫氏の写真まで出
てますよね。
 つまり「心のノート」が2002年度の春に導入される直前に、その中に「畏敬の念」に当たる
記述を書き込む。「生命の『有限性』と『連続性』」という記述を書き込む事に、明らかに力があ
ったと思われるこの押谷由夫氏を全日本仏教会が講師として呼んで講演会をやっているんで
す。

国家が導入した「宗教的情操の涵養」

 そこで「畏敬の念」については、とりあえず以上のような所にとどめておきますが、もう1つは
その「宗教的情操の涵養」という言葉ですね。「この言葉が今に始まるものではない」と申しまし
た。戦前の修身教育に既にあるものだと申しましたけれども、資料の6ページ目を見ますと、そ
れがはっきり分かります。資料の6ページ目は戦前・戦中の教育、「学者」と言って良いでしょう
ね。草場弘という人。たくさん著作がありますけれども、この人が1930年代に出しました「修
身科講座」というですね、これは当時の学校で「修身」を教える教員、先生のために「修身」の
理論的解説書として出された本、いうふうに思っていただければ良いと思います。「『修身』と言
うのは、こういうふうに教えるんだ」という事が書いてあるんです。
 この本の第8章は文字通り「宗教的情操の涵養」というふうに題されています。下の段に色々
書いてありますけれども、「憲法において信教の自由を許された我が国民は実に多種多様の
宗教を信奉している。佛教、神道、基督教等はその主なるものであるが、この各が又無数の
宗派に分かれている………」とあります。
 いわゆる大日本帝国憲法、「明治憲法」と言っておりますが、この大日本帝国憲法では信教
の自由が一定の制限のもとに認められていた。それは「日本臣民は安寧秩序を妨げず、臣民
たるの義務に反しない限りにおいて。背かざる限りにおいて信教の自由を有する」と。「安寧秩
序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有する」。こういう形で信
教の自由が一応書き込まれていた訳ですね。ですからここでも「信教の自由を許された」となっ
ている訳で、「許された」と言うのはまさに許されたので、これは欽定憲法ですから明治天皇の
有り難い御恵みによって「信教の自由を許された」という事になっている訳です。
 しかし、いろんな宗教があるので、学校でその特定の宗教、特定の宗派教育は出来ないとい
う事なんですね。しかし、この「宗教的情操の涵養」は、「やる必要があるし、やってよろしい」言
っている訳です。見ていただきますと、「然るに近来国民教育上、思想問題、国体観念の問
題、国民精神の問題等が一般の注意をひくに到り、この宗教に関する教育が再検討を要求さ
るるに到った。茲に於て文部省は昭和10年11月28日左の如き『学校に於ける宗教的情操
の涵養』に関する通牒を発した」と言うので、1935年、文部省の「学校に於ける宗教的情操涵
養」に関する通牒です。実はこういう形で「宗教的情操の涵養」を国家が導入したものなんです
ね。日本の歴史を見ますと。通牒の前文の所に色々書いてありますが、要するに「宗教的情操
を涵養し以て人格の陶冶に資するは固より之が妨げるものにあらず」。「そういう事をやって良
いんだ」と。
 それで「記」とありまして、一、二、三とありますが、3番目の所を見ていただきますと、「学校
に於ては宗派的教育を施すことは絶対に之を許さざるも」、つまり特定の宗派の教育を学校で
やってはならないということです。キリスト教も仏教も許さない。真宗も許さない。「絶対に之を
許さざるも人格の陶冶に資する爲学校教育を通じて宗教的情操の涵養を図るは極めて必要
なり。但し学校教育は固より教育勅語を中心として行なわざるべきものなるが故に之と矛盾す
るが如き内容及方法を以て宗教的情操の涵養するが如きことあるべからず」という事で、「特
定の宗派の教育は絶対にやってはならないが、人格の陶冶のために宗教的情操の涵養は極
めて必要である。しかし、その時に教育勅語を中心としてやるべきものであって、ましてそれと
矛盾するものは絶対にやってはならないと」、こう言っている訳ですね。
 すなわち「宗教的情操の涵養」と言うのは、教育勅語の枠内で国家が当時の思想問題、国
体観念の問題、国民精神の問題という観点から導入したものであるという事がこれで分かる訳
です。1の所に「修身公民の教授に於ては一層宗教方面に留意すべし」、つまり宗教的情操の
涵養をやるべし、と言っている訳ですね。2番目の所では、「哲学の教授に於ては一層宗教に
関する理解を深め宗教的情操の涵養に意を用ふべし」とあります。「哲学の教育」とまで言って
ますから、もし私が戦前に大学の教員だったら「宗教的情操の涵養」をやらなければいけなか
ったかも知れませんね。こういう事な訳です。

天皇制教育の徹底

 国家が当時の思想問題、国体観念の問題、国民精神の問題、いう問題意識から教育勅語
の枠内で「特定の宗教ではない、何か一般的な宗教的情操を涵養しなさい」として導入し「大い
なるもの」、「個人の命を超えた大いなるものへの畏敬の念」という事にもなってきたという事で
すね。
 当時の思想問題、これはもちろん天皇制に対する批判的な思想。宗教の中にもそういう部分
がありますが、もちろん当時の社会主義や共産主義の考え方が先ず最初に念頭に置かれて
いるかも知れませんね。いずれにしても要するに天皇制、国体観念。万世一系の天皇が統治
する皇国日本という、そういう国体観念に違反する思想、それに背く思想、こういったものを撲
滅し、そしてまさに天皇に帰依する国民精神というものを作り上げるために「宗教的情操の涵
養」をやらなければならない。こういう事だった訳です。この事によって、実際には「宗教的情操
の涵養」の名のもとに、国家神道的な教育、教育勅語の理念に基づく天皇制教育というものが
行なわれました。「大いなるものへの畏敬の念」と言う時の『大いなるもの』と言うのは、「神や
仏でも良い」と言ってますけれども、結局はこれは万世一系の天皇が統治する皇国日本の悠
久の大義というもの。要するに天皇ですね。
 「個人個人の生命を超えた『大いなるものへの畏敬の念』」と言うのは、結局「国家神道」で
す。その祭祀者である天皇への忠誠と、天皇の前で「畏れ多い」という感情を持つ事ですね。
そういったものを持たせるための教育。これが「宗教的情操の涵養」だったと言える訳です。
 さあ、ところがこの「宗教的情操の涵養」を作る会の別働隊である「求める会」が、「教育基本
法「改正」に際して新しい教育基本法に入れたい」と言っています。それに応じて自民党は「宗
教的情操の涵養」を教育基本法の大きな柱として主張してきています。
 与党2党のうち公明党が「愛国心」に対して慎重であるのと同時に、この「宗教的情操の涵
養」を教育基本法に入れる事に非常に慎重なために、「宗教的情操の涵養」は今のところ一昨
年の中教審の答申にも入っておりませんし、昨年の与党の中間報告にも入っていないんです
ね。
 しかし「どうしてもこれを入れたい」という人々がいる訳で、これは「作る会」、「求める会」のみ
ならず、実は先ほどの全日本仏教会、全日本仏教会のもちろん構成メンバー全てがという事
ではないのですが、全日本仏教会はこういう事を運動方針の中に取り入れています。資料に
は「適切なる宗教教育実現のための教育基本法第9条改正推進に関するお願い」という文章
があります。財団法人全日本仏教会理事長、森さんの名前で出されています。宗教教育推進
特別委員会委員長、杉谷さんとの連名で出されています。
 「全日本仏教会は、日本宗教連盟が去る平成15年1月22日付で中教審に対し提出した意
見書の主旨をもとに、左記の通り教育基本法第9条の改正点を明確化し、改正推進活動を展
開していく事になりました。すなわち、現行の教育基本法第9条1項に『宗教に関する寛容の態
度及び宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重しなければならない』とあるのを、
『日本の伝統・文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び意義は、教育上これ
を重視しなければならない』と改正し、2項として『宗教に関する寛容の態度及び宗教的情操の
涵養はこれを尊重する』とし、教育の現場で実施することが緊要の事と考えます」。
 こういうふうになっていて、この文章そのものは全日本仏教会が加盟団体に対して発した文
章という事になっています。

国家に擦り寄っていく宗教
 
 現行の教育基本法第9条は2項からなっているんですけれども、第1項のほうを「日本の伝
統・文化の形成に寄与してきた宗教に関する知識と意義を重視しなければならない」というふう
に言えると思いますが、この「日本の伝統・文化の形成に寄与してきた宗教」と言うのは、いっ
たい何なのかという事です。仏教は入るでしょう。だからこそ全日本仏教会はこれをやろうとし
ている訳ですけれども、神道も入るでしょう。キリスト教はどうなんでしょうかね。私はキリスト教
も入るかなと思うんですけれども、伝統・文化の形成に寄与してきた宗教に何が入って何が入
らないのか、という事を誰がどういうふうに判断するのか、それが問題になりますし、そもそもど
うして仏教やキリスト教、ここでは仏教ですね。仏教というような本来普遍的な宗教。国境に関
わりない世界宗教であるはずの宗教が、どうしてここでですね「日本の伝統・文化」という、「日
本」というその枠組みの中に自ら自分を押し込めていかなければいけないのか。非常に私は
疑問だと思うんですね。そしてそれと同時にこの「宗教的情操の涵養」という、非常に歴史的に
問題のある観念を導入しようとしている、という事です。
 「中外日報」を見てみますと、全日本仏教会の石上理事が「日本文化に根ざす宗教教育をす
べきだ」とあります。中教審の答申でも「無国籍宗教教育になる恐れがある。国籍のない宗教
教育になる恐れがあるから『日本の宗教教育なんだ、宗教的情操の涵養なんだ』という事を強
調すべきだ」として、教育基本法「改正」に関する意見を述べている訳ですね。
 本来、私は仏教の真理というものがあるとすれば、それは「日本」という国家よりも、国家の
枠よりも遥かに広くて深いはずではないかと思うんです。だからこそ仏教は世界宗教、普遍宗
教の1つであり得てきたと思うんですね。
 ところが、それを日本の伝統・文化の中に入れてしまう、ここには「無国籍の宗教教育では困
る」という形で、どうも宗教がこう国家に擦り寄っていく動きが見えるのではないかと、いうふう
に私などは不安になってしまう訳です。


 宗教界がこぞって教育基本法「改正」に意見書

 日中戦争が泥沼化したと言われている時期に財団法人大日本佛教連合会が、高神覚昇と
いう人を編纂者として、『新興日本と宗教』という書物を出しています。
 この人は『靖国の精神』なんていう著書もあって、私最初神道家と思っていたんですけれど
も、この人は仏教者なんですね。真言宗の仏教学者の人で大変な数の著作があります。戦後
に著作集も出ています。この人が1941年に書いたこの著書に「報恩謝徳」として「こんどの事
変は、個人としても、国家としても幾多の貴い犠牲を拂いましたが、それと同時に、また日本人
はいろんな貴重な経験を得ました」と記しています。こんどの事変とは日中戦争のことです。
 さらに「国家のおかげを感じ、国家のためにいのり、国家のために死ぬ。これはひとり兵隊さ
んばかりではなく、国民のすべてが、こんどこそはハッキリ覚ったように思います。もともと日本
は宗教的国家であり、日本国民は宗教的国民であるのですから、いま初めてそれを知ったわ
けではありません。永い間、神道と佛教とが、父となり、母となって、日本人にそういう宗教的な
訓練を施して来た結果なのです」と述べています。
 事変始って間もない頃、外国の一新聞は『日本人の犠牲的精神』と題して、次のような社説
を掲載していました。「日本国民は何物にもかえて自分の国を愛する」。愛国心ですね。「一た
び日本人が戦場に赴くや、決して故郷の家族のことを考えぬ」。どうですかね。「日本人の考え
は敵を倒して自分も亦戦場で死ぬこと以外にはない。その理由は、日本の宗教が、皇室と国
民のために、潔くその生命を犠牲にすべきだと教えるからだ」。確かにこういうふうに教えられ
てきたんですね。「又この世は空なもの、無常なものであるから、おのれの生命や家族のこと
を顧みることなく、国家の安寧のために尽すべしと説くのである。日本人は、おのれの生命を
国家の進歩のために捧げて少しも死を怖れない。これは日本人が近時頓に進歩したところの
重大な原因である」。こういうふうに書かれています。「報恩謝徳という言葉は、日本人の性
格、独自の国民性をよく理解してくれている」と高神は言いまして、「なんと言おうと、私どもはお
互いに自分独りで生きているのではありません。みんな生かされているのです。親のおかげ、
世間のおかげ、国家のおかげ、神や仏のおかげ、いろいろなおかげで生かされているので
す。生かされている自分がほんとうにわかれば、何人も『有難い』『勿体ない』『すまない』と感じ
ないものはないでしょう」。これが「感謝報恩」、「報恩謝徳」という事ですね。仏教の言葉を巧み
に使いながら、しかし、その本質が巧みにずらされているのではないでしょうか。とりわけ「国家
のおかげで生かされている」。ここがポイントなんですね。
 最後のパラグラフを見てください。「要するにわれわれは、万邦無比の皇国日本に生をうけ、
世界に類なき佛教に遭遇したる因縁を欣び、報恩謝徳の行として、臣道を実践していく」。つま
り天皇の臣下としての道ですよね。「臣道を実践していくことが、とりも直さず日本仏教徒とし
て、国家の新体制に処する唯一の道であるということを、改めてハッキリ知らねばならぬと思い
ます」というふうに述べている訳です。「日本の仏教徒になれ」という事が当時も盛んに言われ
たという事なんですね。
 さあ、それじゃですね、問題は仏教だけかと言うと、私はそうは思わない訳なんです。平成15
年1月22日付で財団法人日本宗教連盟、教派神道連合会の理事長さん、全日本仏教会の理
事長さん、そして日本キリスト教会連合会の委員長さん、神社本庁の総長さんの名が連ねら
れ、教育基本法「改正」に関する意見書や中教審の答申に対する意見書を出している。「人間
の力を超えたものや自然への感謝といった伝統的な信仰形態」・人間の有限性や人間の力を
超えたものに対する畏敬の念、こういった事を強調し、そして「わが国の文化や伝統や道徳規
範の深層ないし基盤を形成している宗教的領域」・これに留意して教育基本法を「改正」すべき
だという事を意見書として出している訳です。ですからこれは、かつての言葉を使えば「神・仏・
基」、神道、仏教、キリスト教、みんな一緒になってこういう事を出しているという事が確認でき
る訳です。
 キリスト教会においても、戦時中「宗教的情操の涵養」という事が言われていました。資料に
「宗教教化活動の強化促進」という文章があります。これは日本基督教団の「日曜学校局」と
いう所が出していた雑誌の中に入っているところですが、これは宗教教化活動の教化推進に
関する方針の6項目のうちの2番目のところですけれども、「戦時下に於ける宗教教化活動は
宣戦の大詔」つまり「戦争をやるぞ」という昭和天皇の開戦の詔勅ですね。「宣戦の大詔を奉戴
し宗教的信念・情操の涵養に依りて国民の思想・生活を啓導し、以て益々国民の戦意を昂揚
し国策の浸透を図りて戦力の増強に委せしむることを肝要なり」と。こういうふうに言っている
訳で、キリスト教でも全く同じように「宗教的情操の涵養」が国民の思想統制、ひいては国民の
戦意昂揚のために重要だとされていた訳ですね。
 この日本基督教団と言うのは、プロテスタントの教派が戦時中に集って作られたもので、現
在も存在します。その日本基督教団新報、1944年8月に出たものの中に「靖国の英霊」とい
う文章があります。これを見て私は驚いたんですけれども、「靖国神社に祀られている英霊の
血の意義」、「血」ですね。「血液の意義はイエス・キリストが十字架で流した血の意義に通じ
る」と言っていますね。ですからイエスの血の意義を最もよく理解できるのは、靖国の英霊の血
の意義を知る日本国民である、日本のキリスト者である」という事を言っているんです。非常に
興味深いですので皆さん後で是非読んでいただきたいと思います。一方では「日本仏教」、一
方では「日本キリスト教」という事です。
 今度はカトリックのほうの資料になりますが、1943年の「日本天主公教戦時活動指針」。
「天主公教」と言うのは、カトリック教という事です。活動方針、そこに「綱領」がふたつ、実践要
目が10個ありますけれども、読んでいただければ一目瞭然であります。教育勅語の支配下の
もとでのみ彼らはカトリックの信仰を維持する事にキュウキュウしていたという事が分かりま
す。5番目の所に「報恩感謝の精神」。全く仏教と同じ言葉が出てきますし、7番目の所に「犠
牲の精神」という事で、「靖国の英霊」に通じる言葉がカトリックの側でも出てくる。資料には19
44年、敗戦の前の年の9月30日の「日本カトリック新聞」の記述などもありますが、文部省の
指導のもとに「大日本戦時宗教報国会」というものが設立され、「神佛喜一丸の総決起」、「大
日本戦時宗教報国会結成」という事で、神道、仏教、キリスト教が一丸となって戦争勝利のた
めに総決起して「大日本戦時宗教報国会」を作ったという事が書かれている訳ですね。
 話がずいぶん戦争中の話に遡りましたけれども、かつて日本の宗教が本来世界宗教、普遍
宗教であるはずの国境を越えた真理を伝えるはずの仏教もキリスト教も「宗教的情操の涵養」
という国策によって導入されたこの観念のもとで、戦時協力をしていく事になった。そこではキ
リスト教の十字架にちょうどイエスが流した「血」とか、「犠牲」とか、そういったキリスト教的な言
葉。それから「報恩感謝」とか、「報恩謝徳」といった仏教的な言葉。こういったものが全てその
国家への協力のために使われていたという事が分かるだろうと思います。
 今の流れの中でやはり今キリスト教も仏教も、日本の宗教はもう一度この教育基本法の「改
正」、あるいは憲法「改正」の流れの中で国家の枠の中に自らを閉じ込めてしまうのか。あるい
は国家よりも遥かに広く、また深い宗教的真理のレベルからその国家の危険というものと対峙
していくのか、そこが問われていると思うんです。その時にもちろん教団として、組織としてこれ
に対峙するという事が必要だと思いますけれども、しかし組織は最後は一人一人の人から、個
人からなっている訳です。
 教育基本法の中心にあるのも実は「個人の尊厳」という価値です。教育基本法の前文に「我
らは、個人の尊厳を重んじ」と書いてありますし、第1条「教育の目的」の2行目に「個人の価値
を尊び」というふうに書いてありますね。「個人の尊厳」というものが教育基本法の中心的な価
値であって、一人一人の子どもは、かけがえのないものとして尊重される、これが戦後教育の
出発点だと。
 これはかつての教育が「お国のために子どもはみんな天皇の赤子として、国民、臣民として
育って、いざという時には命を捨てなければならない」というのと、全く正反対にですね「あくまで
個人の尊厳があって一人一人の個人が集まって国を運営するんだ。そのために憲法を定め
教育基本法を定めるんだ」、こういう言い方をしています。戦前からひっくり返っている訳です
ね。
 個人のために国家を運営する。かつては国家のための個人でしかなかった訳です。今そこ
がもう一度ですね個人が国家のためにあるというふうに変えられてしまおうとしている。その時
に宗教・信仰、そして個人というものに私たちは立ち返る事が出来るのかが問われてくると思う
んです。

「個人の尊厳」という事にふれて

 ここで「個人の尊厳」という事にふれて何人かを挙げて皆さんにそれぞれ受け止めていただ
ければと思うんですけれども、宗教という事でここでは結果的にキリスト者を2人挙げる事にな
ります。
 1905年、日露戦争の時に福島県会津地方の矢部喜好という20歳のキリスト者の人が、「自
分はキリスト者であって、『人を殺してはいけない、殺すなかれ』という神の命令を信じているの
で、敵の兵士であっても1人たりとも殺す事は出来ない。だから銃を持って戦場に出る事は出
来ないので、処罰してほしい」というふうに申し出た。これが日本で最初の数少ない兵役拒否
の最初の例。「信仰」の名のもとで兵役を拒否した人なんですね。
 この人は拘束されて、家族はどういう形でその矢部喜好が帰って来るのか。もう本当に戦々
恐々としていたそうです。結果的に矢部喜好は看護兵という形で、兵士として戦うという事を免
れたという事なんですけれども、こういうひとりの個人として、信仰に基づいて兵役拒否をしたと
いう先人を私たちは持っているという事ですね。
 さらに、内村鑑三は無教会派のキリスト者として知られていますけれども、当時東京の本郷
にありました第一高等中学校という所で嘱託の教師をしていたんです。教育勅語が出たのは1
890年ですから、ほぼその直後、1891年の1月9日にその第一高等中学校で「教育勅語の
奉読式」というのが行なわれる事になりました。その時教育勅語に深々と敬礼しなければなら
なかったんです。ところが内村はその敬礼を拒否したという事で「教育勅語敬礼拒否事件」・不
敬事件として伝えられ、もうあらゆる所から集中的な攻撃を受けて非常に不興に立たされた訳
です。
 色々調べてみますと、彼の書いておるものの中では「自分はあの教育勅語を別に拒否した
訳じゃない」と言ってます。refusalをやった訳じゃなくて、その教育勅語を敬礼と言われた時に
そこに明治天皇の御名御璽があるという事で、一瞬キリスト者として良心が咎められ、躊躇し
たと。「hesitation」という言葉を使っています。refusal、(拒絶)じゃなくてhesitation。(躊躇)だ
と。それで頭は下げたんだけれども、ちょっとだけ下げたと。躊躇してちょっと下げた。本来
深々と敬礼しなければならなかったんだけれども、良心の咎めでちょっとだけ下げた結果です
ね、猛烈な抗議を受けて「不敬である。非国民である。国賊である」という事になったという訳な
んですね。
 これ今の教育現場で「国旗・国歌の強制にどうしようか」というふうに悩んでいる教員の人た
ちと重なるところもあるのですが、内村鑑三も決して断固として最初から全部拒否したと言うん
じゃなくて、非常にやっぱり人間として悩んでいたというですね、そういうところがあったという事
を知る事は意味があるんじゃないかと思うんですね。
 ここでご紹介したいのは、「ストラザース宛手紙」と言うもので、これは1891年7月9日、彼が
猛烈な攻撃を受けて心身ともに疲れ果てて越後の高田に、弟とともに籠もった。その高田から
アメリカのストラザースという友人に宛てて書いた手紙なんです。彼が心身ともに疲れ果てたと
言うのはですね、もちろん学校は首になります。辞めさせられます。そして実は彼は肺炎にか
かってしまうんですね。当時の肺炎、これは恐るべき病気です。激烈なる肺炎にかかり、その
余波としてお連れ合いを亡くしてしまいます。こういった事が3ヶ月の間に全部集中して襲ってく
ると言うので、もう本当に心身ともに疲れ果てて高田へ行く訳です。
 「ストラザース宛手紙」を読ませていただきます。「僕は僕の場合が人の子等のうちにて最悪
のものなりとは信ぜず」。自分のケース、こういう迫害を受けるケースと言うのが人間の最悪の
ものであるというふうには思わないと。「然し、友よ、君は破れし家庭、衰えし健康、甚だしき誤
解、かくまで愛する国民に依る迫害、それが一度に頭の上に襲い掛かりし状につき、或る観念
を抱き得るなり」。ストラザースに宛てて、「自分は自分のケースが最悪だと思ってないけれど
も、しかし友人よ、あなたは破壊された家庭、衰えた健康、甚だしき誤解・ちょっとだけ頭を下
げたんですけれども、それが『不敬である』というふうに誤解された。そして国民・社会全体から
もう迫害としか言えないような攻撃を受けた。それが全部一度に襲い掛かってきた。そういう状
況について、あるイメージを持つ事が出来ますか」と言っている訳ですね。「而も僕は理解せざ
るべからず」・理解しないではいられない。
 「政治的自由と信教の自由とは如何なる国に於てもその献身せる子等の間に何かかかる試
練なくしては購われざりしことを」。政治的自由(Liberty)や信教の自由、Freedom of
conscienceですから、これ思想良心の自由ですよね。しかし信教の自由、思想良心の自由とい
うのは、ヨーロッパの宗教戦争後に出てきた「信教の自由」という考え方から来てますから、こ
れはもうつながっている訳ですね。ですが、これは「信教の自由」であり、「思想良心の自由」で
ある訳です。この「政治的自由」や、要するに「民主主義や思想良心・信教の自由というのは、
どんな国にあってもそのために献身的に働く人々の間で、このような私が受けているような試
練なしには手に入らないのではないかという事を私は理解しないではいられない」と言っている
んですね。
 「而して僕は神が僕をかかる重荷を担うために選び給いしことを感謝すべきならずや」と言っ
てます。そして最後のところでこう言ってます。「結局するところ、不幸の奥底に於ても、此世に
は悪よりも善は多くあり、いざ我等をして戦い行かしめよ」と。不幸の奥底にあったとしても希望
を捨てずに戦おうという事を言っている訳ですね。この「戦い」と言うのは、もちろん戦争ではな
く精神的な戦い。もちろん非暴力の戦い、つまり言論表現による戦い。そういう戦い、苦しい戦
いなしにはどの国にあっても「自由」というのは得られないんだ、思想良心や信教の自由を得ら
れないんだ、という事ですね。
 明治憲法では「信教の自由」、書き込まれていましたけれども、それは先ほどありましたよう
に明治天皇の御恵みによって与えられたものという事で、要するに安寧秩序を妨げず臣民た
るの義務に反しない限りという枠がはめられていた。実は「信教の自由」はなかったんですね。
国家教、天皇教を受け入れない、そういうキリスト者や仏教者は認められなかった訳です。

「尊厳ある個人」に

 信教の自由、思想良心の自由が完全に認められたのは、もちろん日本国憲法によってであ
ります。しかし、じゃあ日本国憲法は与えられたものでないのかって言われると、私はちょっと
疑問なんですね。「天皇が与えた欽定憲法ではもちろんありませんが、果たして日本の国民の
多数が自分たちで作ったものか」と言うと事実としては旧日本帝国が敗戦によって崩壊したた
めに手に入ったもの。
 国民はもちろん歓迎しましたし、戦後60年、これを守るために戦った様々な人の運動があり
ました。しかし、これが手に入ったのは実は戦争に負けた結果なんですよね。かつての旧日本
帝国の時代にこの国の国民の多数が「もうこういう体制は嫌だ。駄目だ」と言って、これを批判
し、そして倒して憲法を作ったと言うのでは実はないんです憲法と密接な下部のものとして制定
された教育基本法。これらの核心にある民主的な価値。その更に核心であるのは「個人の尊
厳」だと思うんですね。「個人の尊厳」と、そこから出てくる思想良心・信教の自由。こういったも
のがですね今危うくなっている。脅かされている。もう一度国家によってそれが奪われようとい
う時に、これを易々と認めるのかどうかが問われていると。
 もしもこの「民主的な価値」というものを私たちが、「本当に自分たちのものとして必要なん
だ。自分たちにとっては本当にこれが必要なんだ」というふうに多数の人がそう思っているとす
れば、これは変えられる事はないだろうと思うんですが、まさにそこが問われている。そういう
段階に今来ていると思うんですよね。「個人の尊厳を守る」と言う時には、「尊厳ある個人」でな
ければなりません。私たち自身が。
 教育基本法においては子供たち一人一人が個人の尊厳を保障されなければならないんです
が、それを保障するためには私たち自身がやっぱり個人の尊厳、尊厳ある個人でなければな
らない。そういうふうに考えた時、単に組織として運動するというだけではなくて、その組織を作
る一人一人が本当に自分の思想・良心・どこまで信教の自由を国家に対してそれを退治でき
るのか、いう事ですね。そこが問われていると思います。

NHK問題から学ぶこと

 最後にNHKの番組改編問題に触れてみます。国家権力と結びついた組織に対して、今たっ
た一人で反乱を起こした人がいます。このNHKの番組と言うのは、4年前のちょうど今頃で
す。4本シリーズで「ETV」特集として「戦争をどう裁くか」という企画だったんですけれども、私
はそのシリーズのコメンテータとして、そのシリーズを通じて出演したんですけれども、第2番目
に放映された日本軍性奴隷、それを裁く「女性国際戦犯法廷」を題材にした番組が放映直前
に大修正、改ざんをされたんです。20年間続いているその教養番組は44分の枠で1万本ぐら
い番組がもう出ていると言われています。その中でこの1回だけが40分。突然40分になった。
それだけでも何か異常な事があったという事が明らかなんですけれども、私は出演者としてそ
の放映直前の状況など、ある程度知りうる立場にあったものですから、この事件が4年前に起
こってから自分の持っている台本と放映されたものを比べて、どこが消されたのかを検証する
文章などを出してみたんですけれども、NHKの上層部が教養番組部に圧力をかけて大改ざん
をしたという事までは分かっても、じゃあ何故NHKの上層部がそういう異常な圧力をかけて、
番組として成り立たないようなものを出したのかという事までは分かってなかったんですね。
 政治的圧力が噂されていて、しかも「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」という、
中川昭一議員が代表で、安倍晋三議員が最初は事務局長であった議員グループが「つくる
会」と連携して文句をつけたのだという事も実は噂されていたんですが、確証はなかった。
 4年経ってですね、内村鑑三を連想させますが、「ずっと悩んできた。やっぱり組織の一員と
して中間管理職として、家族もいるし、名乗り出るのは非常に苦しかった。顔と名前を出して名
乗り出れば、もちろん不利益を受けるだろうし、家族が右翼の攻撃に曝されるかも知れな
い」・・彼は今それを一番恐れていますが、「しかし自分は真実を述べる義務がある」という事で
口を開いたわけです。
 その後ご存知のようにNHKと朝日新聞のメディア戦争みたいな状況になっている訳です。別
に彼を英雄視するつもりはありませんが本当にやっぱり個人にならないと「個人の尊厳」なんて
言っても絵に描いたモチではないかという事ですよね。
 憲法や教育基本法で「個人の尊厳」を謳っている以上、やっぱりそれを守ると言うか、それを
実現するためには主権者である民の一人一人がやっぱり「個人の尊厳」に相応しい個人にな
らないといけない。この事件は宗教とは直接関わりありませんけれども、矢部喜好や内村鑑三
と同じような事を私たちに考えさせてくれるのではないか、というふうに思った次第です。
 そろそろ時間がオーバーしております。教育基本法改正問題を巡って今日は特に「宗教的情
操の涵養」といった所に焦点を当てて、宗教との関係で問題になる所を中心にお話をさせてい
ただきました。
 どうもありがとうございました。
  (文責  備後・靖念会)

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